「つながる」って?
ボクが理事をつとめるNPO「ぐらす・かわさき」が設立10周年を迎えます。記念リーフレットをつくるため、過去のニュースレターを整理していたらボクが書いたことが出てきたので、そのまま載せてしまいます。いま読み返すと、ちょっと恥ずかしい文章もあるのですが、いまさら「歴史」をねつ造しても始まらないし…
以下の文章は2001年6月発行の「ぐらすレター」からの引用です。10年も前の文章だけど、自分のこだわりはあまり変わってないかも…です。
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ぐらす・かわさきのキーワードの一つに「つながる」がある。わざわざそんなことを掲げなければならなくなったのは、いまの社会に生きる私たちがつながっていないからである。
☆ホンネはつながりたい
混雑した電車の中で足を投げ出し座る人、きれいに掃除した車の中から道路にゴミを投げ捨てる人など、ジコヂュー(自己中心的)と呼ばれるような、つながっていないことを示す例や事件をあげたらキリがない。その一方で、携帯電話に食い入るまなざしをまちのあちこちでみかけるが、その姿はもっともっとつながりたいと叫んでいるようでもある。
☆それを阻むのは誰?
あえて粗雑な犯人探しをするならば、私たちがつながれなくなったのは「近代」のせいだ。「近代」の一つの特色に要素還元主義というものがある。それによれば、人間の一つの要素(機能)だけが取り出され、評価される。女と男、高齢者と若者、健常習と障害者、日本人と外国人などなど、ある特定の機能の有無や「優劣」だけで評価することを「近代」は人々に強いてきた。
☆近代がジコチューを生みだした
受験、出世、マネーなどの競争(ゲーム)にはまり込む人のように、自らの機能強化だけをひたすら求め、存在の全体性や他者との関係性を無用なものとして捨てていく。個人がそれぞれの機能に応じてパラバラになって暮らすジコチュー社会は、まさに「近代」の完成形態といえよう。ところが、いくら自分を磨き機能を強化しても(「自分探し」。をしても)、ちっとも「しあわせ」になれない…。
☆まじりあい、関係性の回復を
「つながる」という言葉はそんな社会を背景に注目されるようになった。こう考えるならば「つながる」とは「近代」が切り捨ててきた存在の全体性や他者との関係性を回復していく営みといえよう。各人の機能や要素とは無関係に「ありのままの私」がさらけ出され、他者がそれを受け容れ・拒絶しつつも、とにかくまじりあって暮らしていくことが「つながる」ことである。
☆身近な一歩から広がる可能性
こう書くと何かたいへんそうだが、いろいろな人が集って飲んで食べておしゃべりをする
ことも「つながる」つまり「近代」の超克である。それを身近で小さな単位から試みることを、ぐらす・かわさきで実践していきたい。