« 早慶大入試対策フェア(駿台) | トップページ | 教育再生民間会議の提言 »

2007.01.23

現代社会における「心の苦痛」

 最近のさまざまな事件をみていると、こんな過去問もおさえておいた方がいいかなと思い掲載することにしました。早稲田大学法学部センター利用入試の論文試験(1999年)で、100年近くも前の坪内逍遥の文章に現代社会に通じる問題発見を見出し考える良問です。著作権の問題もないと思うので、そのまま掲載します。課題文の続きや解答例は「続きを読む」をクリックしてください。

設問
 次の文章は、坪内逍遥が二十世紀の初め、当時の日本社会において「なぜ人の心に苦痛が多いのか」の原因を四点にわたって述べたものである。逍遥のこの分析に関連させて、今の日本社会における「心の苦痛」について、一二〇〇字以内で論じなさい。

第一、今日お互いの心に非常に苦痛の多いのは、生存競争が激烈であるので、心身の疲れる事が一倍で、そこで疲労困ぱいの苦しみが多い。ただ歩くのでも一里二里あるいは三里と歩けば相当に疲れるが、それらは渋茶を一杯も飲めば癒えるのである。しかるに一里にしても、四里にしても、競争をしてもし遅れたなら命が無くなるという場合には疲れが激しい。それも一生懸命にやって勝てばよいが.負けた時にはおそろしく精神が沮喪する。渋茶一杯ぐらいではなかなか治らぬ。

それに今日は旧幕時代とは違って四民平等である。昔はそうでない。あの殿様は鼻の下が長い、おれよりは馬鹿だと思っても、その前では辞儀をせなばならぬものと諦めていた。しかるに今日は皆平等で自由である。自由競争の時代においては、強いものが勝ち、早いものが勝つ。優勝劣敗である。で、種々ともかく、あせる。ゆえに一倍の疲労を招く。しからば勝てば安心かと言うに、いつまでも安心のできぬ今日である。いつ後ろから突き落とす者があるかも知れぬ。勝って兜の緒を締めろというが、今日は緒を解く暇が無いのである。

 第二、今日は個人本意である。自分本位である。ゆえに苦痛が多い。忠恕信義の道を盛んに説いた孔夫子の存命中でも、利巳主義者はいくらも出た。身を献じて国家に尽くさねばならぬ、親のために身を棄つべき義務があると思っていた時代ですらそうであった。親も自分も平等であると思っている今日ではなおさらである。親子、夫婦さえ別々で、互いに権利の衝突がはじまる。これらは西洋の芝居や小説にいっそう多くあらわれている。というのは.西洋は日本よりも個人主義であるからである。ストリンドベルクの作には夫婦の衝突がするどくあらわされている。それも単に意見の衝突に止まらず、共に権利を求め合っている。すなわち家庭においても戦争をしているのである。男子は外に出れば七人の敵をもつというが、家にいても一人の敵がある。あるいは五人七人の敵がある。それも不断無事のときには風波も起こらぬが、何かあると、夫婦といえども別々になる。家庭の団欒は昔の夢となってしまう。むろん刎頚の友などいうものは無い。で、少しも心を安んずる時が無く、苦しみが多い。失敗と憂愁があるのみである。孤独の寂しさを感ずるのみである。

 第三、今日の人は昔の人に比べればはるかに自意識が強烈である。智識が進んでいるだけ苦労が多い。字を知るは憂患の初めというが、学問があると物の道理が分かり、想像がよく働く。したがって一倍の心労が生ずる。自意識が強いから瀧を得て蜀を望む。上へ上へと登ろうとする。煩悩は十九世紀の後半以来二十世紀の今日へかけて、お互いの病である。物に飽き足らないからして、煩悶が多い。己れの分に安んじないから、足るを知るという事は今の人ではできぬ、此にこおいてか非常に苦しい。金さえあればなあと思って煩悶する。羨み、ねたんで、諦められぬ。それで苦しい。

 第四は今申した自意識の強烈に連関しているが、人の智識が進んだ今日は、いずこの国の事でも、何千年昔の事でも、勉強すれば、これを知る事ができる。研究が広くなって、批判力がさかんになっている。口も肥えている。今までは手馴れた物のみを面白いと思っていた者も、珍しいものを眼前へ持って来られると、それが欲しくなる。あたかも子供に粗末な玩弄物を与えても一時は喜ぶが、隣家の子供が東京とか佛蘭西とかで買って来た立派なのを見せびらかすと、それを欲しがるようなもの。あヽでもない。こうでもないと不平が起こる。

今日はなるほど結構な世の中になっているようであるが、その実は苦しみも多くなっているのである。この心の苦しみが一つの病というべき程になっている。この心痛病はどうして癒したらよかろうか?西洋人は十九世紀以来それを経験し来っているが、この大波が日本へは一時に押し寄せた、だからいっそう危険である。

(坪内逍遥『教化と演劇』より)

【解答例】

人の心に苦痛が多い原因として、逍遥は四点あげている。生存競争が激烈であること、自分本意であること、自意識が強烈であること、人の智識が進んだことが、四点の骨子である。それぞれの点について今の日本社会でどうなのかを検証すると一貫性のない主張になってしまう。そこで四点のいずれか焦点をしぼり込んで主張することも考えたが、私は相互の関連をめぐり今の日本社会における「心の苦痛」について述べることにしたい。

逍遥が指摘する四点は一見すると独立した原因のようにも思えるが、いずれも個を重視する近代化がもたらしたものである点で相互に密接に関連している。そもそも個には自分だけでなく他者の個も含まれるから、その重視が直ちに自分本意をもたらすわけではない。しかし、今の日本社会がそうであるように、放っておくと自分本意の傾向を人々に生み出してしまう。そして自分本意だからこそ、逍遥が指摘するようにさまざまな面で「心の苦痛」をもたらすのだといえよう。

たとえば、生存競争が激烈であることが直ちに「心の苦痛」をもたらすわけではない。生存競争の中で自分だけが勝とうと考えるから疲労困ぱいするのである。自意識が強く上へ上へと登ろうとするのも、何よりも自分自身が満たされない気持ちが強いからだろう。自分だけでなく他者を満たすことへの関心があれば、羨みやねたみという「心の苦痛」を抱え込むことも少ない。智識が進むことも同様で、得た智識を自分本意でとらえようとするから、自分の欠落だけが意識され、不平という「心の苦痛」が起こるのである。

逍遥の生きた時代はまがりなりにも近代化が進み、それが日本社会に自分本意という風潮を生み出す兆しとその危うさを逍遥は感じ取っていたのだろう。その後、戦争による中断はあったものの、戦後の高度成長を経て消費社会が到来し、自分本意の風潮はさらに強化されることになった。かつての製造業そして現代の情報産業も、いかにして個人の欲求を喚起し、それを満たすのかが最大の関心事となっている。自分本意の風潮は衰退するはずもない。

 しかし、一方で、自分を満たそうとするあまり生きることに疲れ果ててしまったり、物質的に豊かになるだけでは精神的に満たされない人も少なくない。そうした「心の苦痛」と向き合えるだけの強さを持っている人は何の問題もないが、そうでない人は苦痛から逃れるために自分や他者に対して攻撃的にならざるを得ないだろう。自殺や衝動的犯罪が増加する背景に「心の苦痛」がある。生きているかぎり「心の苦痛」がなくなることなどないだろう。しかし、それを和らげることはできるはずだ。そのためには「心の苦痛」を生み出した自分本意の風潮を克服し、他者の個も大切にしそれとの関係性の中で心の安らぎをえる道を模索していくべきである。

【注】

 沮喪…気力がくじけて元気がすっかり無くなること。

 忠恕…思いやりが深いこと。

 夫子…長老、賢者、先生など尊称。

 ストリンドベルク…スウェーデンの劇作家、小説家、ストリンドベリ・ストリンドべルイ。

 瀧を得て蜀を望む…むさぼって満足を知らぬたとえ。

 玩弄物…おもちゃ。

« 早慶大入試対策フェア(駿台) | トップページ | 教育再生民間会議の提言 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 早慶大入試対策フェア(駿台) | トップページ | 教育再生民間会議の提言 »

カテゴリー

2015年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31